劇作家・演出家・ストーリーテラー
萩谷至史のホームページです
もし、私が死んだら、身体はそのまま海に投げ入れてほしい。
そうしたら、プランクトンや魚達が私の身体を遠いところへ連れて行ってくれるから。
そんな事を考えながら、防波堤の前に立って寄せては引く海を眺めていた。
今日の昼間、祖母の墓地への納骨が終わり、私は、26歳にして初めての身内の葬儀を無事に終了した。
大腸がんで実家の近所の病院に入院していた祖母の病状は、半月前から急激に悪化した。それ以来、地元で婚約者のケンジと住んでいる私は、父と母と交代で、祖母を見舞っていた。
祖父は私が生まれる前に亡くなっていた。だから、祖母に必要な物を持って行ったり、話相手になったりするのは私たち三人の役割だったのだが、それぞれ仕事をしていたため、皆慌ただしい生活を送らざるをえなかった。
なので、私も、両親も、口には出さないものの、どこかにほっとした気持ちがあった。
今、家では、父、母、弟、ケンジ、そして親戚数人が、お酒を飲みながら、祖母の事を話している。
親族で唯一お酒が飲めない私は、なんとなくその輪の中に入れずに、海沿いまで逃げてきてしまった。
逃げて来たはいいものの、一人でいると、嫌でも葬儀の時の事が浮かんでくる。
火葬場で見た祖母の遺骨は、肉体という概念を完全に放棄していた。
火葬の直後に職員が箸で骨を扱っているときの、骨同士がぶつかる乾燥した音は、生きている身体からは絶対に出る事の無い音だった。
90年生きていた身体は、90分ほど焼けば、消滅してしまうのだ。
なんだかそれが無性に寂しい事のように思えて、私は、火葬は絶対に嫌だな、と、思った。
夕方の海は、物寂しい。
薄暗くなっていく空と、その色を映す海面は、それぞれ、互いに高く深く空間を広げていた。水平線を眺めていると、徐々に空間に取り残されていくような感覚を覚える。
祖母は近所に住んでいたので、私は、小さい頃からよく遊んでもらっていた。
特に、この防波堤は何度も何度も祖母に背負われながら来た場所だった。
私を背負う祖母の身体と声は温かかった。
夕方、冷たい海風が吹いても、祖母にしがみつけば、冷たいという感覚は一時的にこの世から消え去った。
私は、祖母との断片的な記憶をたどった。
しかし、いくらたどったところで祖母の身体は帰って来ないのだ、ということを冷たい風が吹くたびに思い知らされる。
死について、身体が無くなってしまっても私達に記憶は残る、というのが正しいのならば、
私達に記憶は残るが身体は無くなってしまう、というのも正しいのだ。
祖母が生きていたのは、身体があったからだ。
例えば私を背負う彼女の腕が、背中が「機能」していたからだ。
私は、ふと、大学時代に行った、とあるギャラリーのことを思い出した。
東京の大学に通っていた頃、友達の誘いで、友達の高校時代の同級生がやっているというある個展に行った事があった。
小田急線沿いにあるギャラリーには、人の形をしたオブジェとか、様々な色をした輪っかを組み合わせたような絵なんかが飾られていた。
普段、アートなんかに全く触れる機会が無かった私は、抽象的な絵や表現はよくわからなかったものの、それなりに、なんとなく、その空間そのものに圧倒されたのを覚えている。
友達は、友達の作家と何か話していたが、その内容もよく分からなかった。
「人間の機能ってさ、心だけじゃなくて、身体にもあるんだよね。」
帰り道、立ち寄ったカフェでコーヒーを飲みながら、友達はつぶやいた。
「え?」
「こうやってさ、座ったり、話したり、コーヒー飲んだりするのは、心じゃなくて、身体なんだ」
「どうしたの、突然?」
「さっきの個展見てて思ったんだよね。なんか、人の身体って、色々なパーツが集まってできてるんだなって。そのパーツがそれぞれ機能する事で、人は人として存在してるんだ」
「ふうん」
私は、よくわからなかったが、なんとなく相づちを打った。
……が、あのとき友達が言った事が、今なら分かる。
私は、骨壺に入れられた、祖母の骨を思い出した。
記憶になってしまった祖母は、もう、私を負ぶって海を見せてくれる事は無い。
骨の乾いた音がリフレインする。
私は急に不安になって、両腕で自分の身体を抱きしめた。
腕はこんな感じ、肩はこんな感じ、お腹はこんな感じ、胸はこんな感じ、頬はこんな感じ。
私のパーツは、私の身体の形をしていた。それぞれが、しっかりと存在して、機能している。
、、、
今、こうして機能している私の身体も、いつかは無くなってしまうのだろう、か。
「おーい」
呼ぶ声に振り向むと、ケンジが立っていた。
「そろそろ帰ろう」
私は、酒で赤くなった締まりのない顔を見た瞬間、反射的に、その身体に飛び込んでいた。
ケンジは、突然の事に一瞬ふらつくが、すぐに踏みとどまって、私を抱きしめる。
「大丈夫?」
「酒臭い」
「知ってる」
顔を胸に押し付けると、ケンジは、抱きしめる力を少し強めた。
私を支える腕や手、お腹、胸を、私は感じる。
アルコールで加速した心臓と血管の拍動を、私は感じる。
呼吸する肺の膨張と収縮を、私は感じる。
私も、ケンジを抱きしめた。
私の身体は、確実に、機能していた。
「……ねえ、ケンジ」
「何?」
「もし、私が死んだら、身体はそのまま海に投げ入れてほしいの。そうしたら、プランクトンや魚達が私の身体を遠いところへ連れて行ってくれるから」
「……それもいいかもね」
ケンジがどんな意図でそう言ったかは分からなかった。
けれど、そのケンジの喉から出た空気の振動は、私の身体の機能を落ち着かせるには十分温かかった。